★本編★

其ノ拾肆、柵

【主要登場人物】
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【その他登場人物】
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*CP*
幻洛×伊丹

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幻洛と別れた裂は、村外れにある森の入り口付近に来ていた。
「…この辺りのはずだったが…。」
まだ陽は昇ったばかりだというのに、奥へと続く林道は極端に薄暗かった。
そして、呼び寄せるかのように風を吸い込み、まるで唸り声にも似た奇妙な風音。

そこは以前、伊丹が失踪未遂をした樹海の入り口だった。

ふと、裂は何かを思い出すかのように顔を顰める。
気配としては怨霊であったが、邪鬼でもあった。
あれ程まで混沌とした強い気配を感じたことなど、これまで無かった事だ。
「勘違い、…で終わらせたくないところだが…」
不確かな気配だったこともあり、裂はこれ以上の探索を切り上げようとする。

「!」
突然、裂は背後から別の気配を感じる。
それはこの万華鏡村に来る前から知っている、一番関わりたくない者の気配だった。
もはや振り向かずともわかるその者に、裂は苦渋の表情で唇を噛み締めた。

「…裂、か…?昼から巡回とは珍しいな…。」
そこには、万華鏡神社に付属する屋敷、すなわち自分たちが住んでいる屋敷の家事全般を担当している鎌鼬の混血妖怪、ツヅリの姿があった。

女ではあるが、その紳士たる立ち振る舞いと透き通るような低い声に、彼女は同性から好意を向けられることが多かった。
今日も、村の町娘たちから声をかけられたのだろう。
彼女の荷物には、豪華な花々が紛れていた。

「………ああ、まあな。」
裂はチラリ、とツヅリの方に目をやるも、無愛想に返答する。
そんな裂に、ツヅリは警戒するかのように目を細めた。
「…お前、ここで何をしていた…。」
「ツヅリ、俺はまだ任務が残っている。またな。」
裂はツヅリの問いを無にするかのように話を遮る。
途端に、裂は忍術を使ったのだろう、スッとその場から姿を消してしまった。

一人残されたツヅリは内心舌打ちをしながら、樹海へと攫われていく風の冷たさを感じていた。
とても心地の良い晴天のはずが、その場の空気のみ、別世界のように酷く重かった。

ツヅリは困った表情で溜息をつく。
裂との殺伐とした関係は、今に始まった事ではない。
「…はあ、相変わらずな奴だな…。」
森の入り口から背を向けると、ツヅリは食材が包まれた風呂敷と町娘から貰った花束を抱え直し、村へと足を進めていった。

その場に残された重苦しい空気が、微かに揺れ動いていた。

………

戌の刻。
茶の間の卓袱台を囲んだ幻洛、伊丹、ふゆは、ツヅリ、裂は、本日の夕飯を食していた。
この日も豪華な献立が卓袱台いっぱいに並んでいた。
勿論、全てツヅリの手作りである。

「こうやって裂と一緒に晩御飯を食べるのも久しぶりね。」
ふゆはは自身の湯呑みを卓袱台の上にトンと置くと、久しく夕食を共にする裂に笑みを向けた。
その柔らかな笑みに応えるように、裂もフッと笑みを向けた。
「そうだな。…突然ナギと入れ代わりになって悪かった。本来なら、夜は二人で過ごすんだろ?」
「えっ!そ、そんなことは…」
突然ナギの話題を振られ、ふゆはは頬を赤く染める。
ふゆははナギと恋仲になり、長い時間を共にしてきた。
もはや二人の仲は皆が認めているものの、ふゆは自身、恋人の話題を振られるのはどうしても慣れないようだった。

「…ま、今夜は私がふゆはちゃんを頂けるわけだ。」
「あ、えっ…ちょっ…」
隣に座っていたツヅリに腕を回され、ふゆはは益々冷静さを失った。

間近に感じるツヅリの爽やかな香り。
同性とはいえ、まるで男形のような堂々とした立ち振る舞いや惹きつけられる低い声に、ふゆはは恋仲のナギとは別の意味で心の臓が高鳴ってしまった。

「おいツヅリ、半分わけろ。」
恨めしそうに、ツヅリの向かいの座席から幻洛が唸る。
「幻洛さん、悪ノリしないでください。」
冗談とはわかっているものの、幻洛の隣に座る伊丹は彼を制止すべく話を遮った。
「…ああ、俺は伊丹しか眼中にないから安心し…いでっ!」
「おやおや、何を言ってるのかわかりませんねぇ。」
伊丹の腰に手を回そうとした幻洛が、突然情けない叫び声をあげる。
伊丹は真っ黒な笑みをニコニコと幻洛に向けていた。
どうやら伊丹の術により、回そうとした手の甲に呪符を添えられ、そこから地味に強力な電撃波を受けたようだ。

「幻洛…最近輪をかけて変態になったな…。」
伊丹に撃沈されたにもかかわらず、瞬く間に復活する幻洛。
良い意味で異様な光景に、裂は若干引きながら伊丹に懐く幻洛を見ていた。
「ええそうなんです…。全く、困ったものです…。」
まるで磁石のようにくっつく幻洛を、伊丹は鬱陶しそうな表情で肘打ちした。
勿論、伊丹は本気で煙たがっているわけではなく、幻洛もソレがただの照れ隠しである事を互いに理解していた。

そんな二人のやりとりに、裂からフッと笑みがこぼれる。
「まあ、伊丹が良い手枷足枷になっているようなら俺も安心だ。」
「なっ…裂さん…!?」
裂の言葉に、伊丹は動揺した。

幻洛との関係が進展した旨は秘密になっている。
勿論、この先一生隠し通すのは無理なことだと伊丹もわかっている。
しかし現時点では心の整理も必要であり、とてもではないが公にすることなど出来なかった。

「お、よく分かっているなぁ裂は。」
「お前はすぐ調子に乗るんじゃない。」
朝方のように戯れついてこようとする幻洛に、裂はすかさず人差し指で目潰しを食らわす。

この戯れも、裂にとっては当たり前のことになっていた。

「…ところで裂、」
“当たり前”の思考を遮る透き通った低い声が、裂の聴覚を貫く。
「昼間、村外れの森付近でなにをしていたんだ?」
ツヅリは傍に茹でダコ状態のふゆはを抱きながら、いつものように何気無く問いかけた。
少しばかりの警戒心を含ませながら。

「…。」
裂は深い溜息をつく。
その溜息一つで、それまで暖かかった空気が一気に凍りついたようだった。
「…妙な気配があったから確認したかっただけだ。残念ながら、俺の思い過ごしだったようだがな。」
裂はまるでどうでもいい話かのように言い放つ。
無論、裂の中でも、樹海前での出来事は放っておくことなどできない件だった。

しかし、今はただ、この監視から一刻も早く解放されたい。
その思いが、裂の苦痛な気持ちを駆り立てる。

カチャ…と箸を置く軽い音が静かに鳴る。
「明日からまた、俺は通常通り夜間の任務に戻る。それまでしっかり休ませてもらうよ。」
裂はサッと立ち上がると、そそくさと部屋を出て行った。

静かな嵐が去り、残されたのは虚無だけだった。

「…はあ、これだからあいつは…。」
「?」
呆れるように頭を抱えるツヅリに、状況が読めないふゆはは疑問符を浮かべながら首を傾げる。

「…幻洛さん…。」
「…あぁ。」
その様子を、幻洛と伊丹は静かに見ていた。
嵐はまだこれから訪れるであろう、そう互いに思いながら。

………

子の刻。
これまでの疑心に満ちた出来事により眠れずにいたツヅリは、気持ちを一転させようと屋敷の渡り廊下に佇んでいた。

本棟と皆の自室を繋ぐこの渡り廊下は、中庭をよく見渡すことができる絶好の場所だった。
特に今夜は星々が光り輝き、より一層の演出を醸し出していた。
しかしツヅリにとって、今はそのような感傷に浸る余裕など無かった。

「…。」
ツヅリは複雑な心境で廊下の柱に背を預け、腕を組みながら顔を伏せた。

ツヅリ自身、好きで裂に疑いをかけているわけでは無い。
ただ過去の関係上、彼を野放しにする勇気がなかった。

その笑顔の、どこまでが偽りなのか。
いつ何時、その本性を現すのか。

ただ、皆の日常がいつ崩されるのか不安で仕方がなかった。

「…!」
カタン、と軽い物音にツヅリは顔を上げた。
そこには今一番会いたくなかった、裂の姿があった。
途端に、ツヅリの視線が警戒のものへ変わる。

「…。」
コツ、コツ、と規則正しい足音が近づく。
万が一に備え、ツヅリは心の中で身構えていた。
しかし、こちらのことなど視界に入っていないかのように、裂は無表情のままツヅリの目の前を通過し、その場から立ち去ろとしていた。
裂の通り過ぎた風に、ゆらりとツヅリの髪が揺れ動く。

「…待て。」
低い声で、はっきりと、ツヅリは裂に静止を呼びかける。
だが、その静止すらも受け入れないかのように、裂の足が止まることは無かった。

「おい、待てと言っているだろ!」
呼び止めに応えぬ裂に、ツヅリは声を荒げる。
そう簡単にいかないことはツヅリも予想していた。

「…変わらない奴だな。昔から。」
「!」
ぽつりと呟くツヅリの言葉に、渡り廊下の引き戸に手を添えていた裂の動きがピタリと止まった。

二人の間を、夜風がサッと吹き抜ける。

「今更過ぎたことを話題にされても返答に困る。」
裂は振り返らず、いつもの口調で漸く答えた。
何も変わらない、時が止まったままの裂の思想に、ツヅリはわかりやすいため息を吐いた。
「…いつもそうだ、あの時からお前は、」
その先を話そうとした矢先、裂がようやくこちらに振り返る。
途端に、ツヅリは辺りに稲妻のようなものが走った様に感じた。
「あの頃の話は蒸し返すなと言っているだろ!!」
「!!」
突然鳴り響く裂の怒号に、ツヅリは言葉を詰まらせる。
しかし、ツヅリはこんなことでは怯まなかった。
「ッ…蒸し返しているのはお前だろ!!」
低く凛としたツヅリの怒号が、渡り廊下から屋敷の庭園まで貫かれる。
裂は威嚇する狗のような鋭い視線で歯をギリッと鳴らすも、それ以上は反論しなかった。

一切の言葉を受け入れようとしない、”無”を相手にするツヅリは、やるせない気持ちにチッと舌打ちをする。
「…そうやっていつまでも過去のしがらみに囚われているのはお前なんだぞ、裂。」
裂を追い詰めるために、あえて過去の話を蒸し返しているわけではなかった。
ただ、この先も皆が安心して暮らせるようになるには、裂という人物像を改めて知る必要があったのだ。

再び、辺りがしんと静まり返る。
まるで呼吸をする吐息すらも大きな音の様に感じた。

裂は目を伏せながら、ゆっくりと重い口を開く。
「…ようやく解放された。ようやく居場所を見つけた。それなのに、この屋敷でツヅリと再会した。…それがどれだけ苦痛だったか、お前のようなヤツには一生理解出来ないだろうな。」
口元を覆う黒い布地から、微かに裂の口角が上がっているように見えた。
しかし、その表情はどこか悲しそうだった。

裂は静かに背を向け、渡り廊下の引き戸を開ける。
「俺はもう、誰かに監視されることに疲れた。…これ以上俺に突っかかるならば、俺はこの屋敷から姿を消す。」
「…!おい、裂!待て!」
ツヅリの制止を無にするように、裂はそのまま静かに姿を消した。

………

「…ったく、どうしたものか。」
益々睡魔が遠のいたツヅリは、再び頭を悩ませていた。

彼を信用していないわけではない。
だが、裂が過去、名のある犯罪組織の一味だったことを思うと、どのような拍子で彼が寝返るかわからなかった。
今日の不穏な行動を見れば尚更だ。

「…で、俺に相談を持ちかけたわけか。」
浴衣に着替えていた幻洛の重低音の声が、伊丹の部屋に緩やかに響く。

ツヅリは裂と旧知の仲である幻洛に訪ねたものの、その姿は伊丹の部屋に有った。
近頃の二人の仲もあり、ツヅリはこの状況を疑問には思わなかった。

「万が一、裂が敵対したら、俺も容赦なくあいつに刃を向ける。殺すことも躊躇しない。」
おそらく、それは同じ用心棒を務めるナギも言っただろう。

万華鏡神社の用心棒たるもの、村民の命を脅かす存在は徹底的に駆除しなければならない。
それが彼らの仕事だ。

「…殺す、しかないのか。」
ツヅリの声色が下がる。
その表情は少しばかり複雑そうなものだった。

『殺すことも躊躇しない。』
幻洛の言葉が、ツヅリの中で深く突き刺さっていた。

裂はかつて犯罪組織に身を置いていた者で、その前科は少なくはない。
勿論、彼が更生したという情報も今まで無い。
もしも裂が寝返り、その罪の償いとして命を落としたとしても、自業自得と捉えればいい。

そう思っていたのに、この心のつかえは何だろうか。

「ツヅリ。」
「ん?」
神妙な面持ちで呼ぶ幻洛に、ツヅリは短く返答する。
「…お前が今、本当に思っていることを読み取っても構わないか?」

幻洛は覚の血を主とする混血の妖怪。
純血の覚ほど強い能力は使えないが、他者の心を読み取る程度であれば難なく使うことが出来る。
遠い他所の村では、覚の能力を良く思わない風習があり、卑劣な血として古より蔑まれてきた種族という話もあったそうだが。

「構わない。何も恥に思うことは無い。」
凛とした態度でツヅリは許可をする。
幻洛に心を読み取られようが、ツヅリは悪い気はしなかった。
むしろ自分で自分の心を理解できていないこの状況で、自らの代わりに理解してもらえるならば、ツヅリにとっては非常に有り難いことだった。

ツヅリは鮮緑色の目を幻洛に向ける。
その澄んだ色合いは、春風にそよぐ若葉のようだった。

幻洛の金眼が、ギラリとツヅリの目を捕らえる。
すると、幻洛からフッと笑みがこぼれる。
「…やはり、な。」
もはや覚の能力を使わずとも知っていたと言わんばかりに、幻洛は金眼を伏せながら一人頷く。

「ツヅリも殺しは望んでいない、だろ?」
「!」
その言葉に、ツヅリはハッとする。
溜まっていた心の靄が、早々と消えていくようだった。

殺しは望んでいない。
その言葉に否定はできなかった。
では、一体何が不安を煽っていたのか。

その疑問を見透かすように、幻洛は落ち着いた口調で付け加える。
「それに、ツヅリが思うほど、裂は危険視する存在ではない。」
「なっ…何故そう言い切れるんだ?アイツは犯罪者で、命を軽んじる奴だぞ?」
ツヅリは思わず身を乗り出す。
犯罪組織ぐるみでとはいえ、裂は数々の悪虐非道を行ってきた。

その逆賊と対立してきた当事者が困惑するのも無理はない。

「ツヅリはまだ、裂から聞いていなかったのか?」
「何のことだ…?」
頭の上に疑問符を浮かべるツヅリに、幻洛はフッと笑いながら口を開いた。

「アイツが犯罪組織にいた頃の境遇だ。」

裂が犯罪組織でどのような扱いを受けてきたのか。
そんな事など、ツヅリは考えもしなかったことだ。

「…世辞にも、裂は良い環境にいたとは言えない。」
まるで俺と同じようにな。
言葉には出さずとも、幻洛は心の中で自らを嘲笑った。
「俺も詳しくは聞かなかったが、単刀直入に言えば、使い捨ての駒のような扱いだな。」
「!!」

使い捨ての、駒。

その言葉に、ツヅリの心がグラッと揺れ動く。
何故ならば、その境遇がどのようなものを指すのか、身に覚えがあったからだ。
ツヅリは沸き立つ何かにグッと堪えながら、己の拳を強く握りしめた。

「…裂さんの顔にある傷跡も、その時に負ったものだそうですよ。」
部屋の片隅で、静かに書物を読んでいた浴衣姿の伊丹が顔を上げ答える。
解かれた柳緑色の長髪が、サラリと肩から流れていた。
「な、何だ…。伊丹殿も知っていたのか…。」
「ええ。…何せ、その時の裂さんを助けたのは僕なのですから。」
「はっ…!?」
衝撃的な言葉に、ツヅリは間の抜けた声を上げてしまう。

「裂を…助けた…!?伊丹殿が…!?」
「ええ、そうですよ。」
驚愕するツヅリに、伊丹はニコッと笑みを向ける。
状況が見えない展開に、ツヅリはただ口を開けていた。
仮に裂を救う事があったとしても、該当するのは旧知である幻洛だと思っていた。
しかし現実は全く異なり、裂とは関係性の薄そうな伊丹が関わっていた事実に、思考がついていかなかった。

「…先に幻洛さんが話した通り、裂さんはあまり良い扱いをされていなかったようです。僕が裂さんと初めて出会ったのは、怨霊が多数出没する樹海でした。」
そこは万華鏡村とは異なる場所だった。
伊丹は偶然にも、陰陽師としての仕事でその樹海を訪れており、その際に裂と遭遇したのだった。
「おそらく、その犯罪組織の仕打ちで怨霊の樹海に置き去りにされたのでしょう。僕が出会った時、裂さんは全身傷だらけで、武器一つ無い丸腰の状態でした。」
「…そんな、ことが…。」
信じられない、といった表情で、ツヅリは伊丹の話を聞いていた。

「大量に血を流しながらも、裂さんは命乞いすらしませんでした。しかし、あの時感じた”生きたい”という強い思いは、今でも忘れられませんね…。」
伊丹は懐かしい記憶を痛感するように、目を伏せて呟いていた。

裂は命を軽んじる者。
長年の不安が簡単に覆され、ツヅリは今日で何度目かの深いため息をついた。

調子が狂いそうだ、と低く呟きながら項垂れるツヅリに、幻洛は鼻で笑った。
「相手がかつて敵対していた政府組織の者ならば、言いにくいのも無理はないだろうな。」
「…。」
幻洛の呟きに、ツヅリは何も答えなかった。

幻洛の言う通り、ツヅリはかつて政府組織に身を置いていた。
その所属先は、反政府組織集団への武力行使を行なう部隊だった。
ツヅリは鎌鼬を主とする混血の妖怪であるが故、その攻撃力の高さを魅入られ、常に前線に身を置いていた。

裂のいた犯罪組織とは長い因果関係があり、冷酷で外道な行いに何度も火花を散らしてきた。
特に裂は犬神を主とする混血の妖怪で、忍術と称された祟りの力で罪の無い者たちを無差別に殺めてきた。

裂とこの屋敷で再会した時、ツヅリは内心かなり動揺した。
かつての天敵と、また刃を交えなければならないのか。
ずっと不安定な気持ちに駆られていた。

幻洛やナギたちと楽しそうに会話をする裂の姿を見て、その時は彼の過去を言い出せなかった。
だが、いずれは皆に注意を流さなければならない。
そう思っていた。

そう、思っていたのに。

皆と打ち解けている裂の光景が蘇り、あの頃のように敵視出来なくなっていた。
そして今、ようやく理解した。
心の何処かで、裂を仲間と認識している事に。
この思いが、偽りではないという事に。

しがらみに囚われていたのは自分自身だったなど。
今更の真実に、言葉が出てこなかった。

無言のまま俯くツヅリに、幻洛はどこか軽快そうに声をかける。
「まあ、これ以上を知りたいならば、本人から直接聞くといい。」
「アイツが話すというのか…?私にだぞ…?」
のそり、と顔を上げるツヅリに、幻洛は口角を上げる。
「…時が来れば、な…。」
「…。」
その言葉がどういう意味なのか。
今のツヅリには、理解しようにも余裕がなかった。

暫しの沈黙を経て、ツヅリは重たい腰を上げた。
これ程まで自身の身体を重く感じたことは無いくらいだ。

正直なところ、間接的にでもまだまだ話を聞きたいところだった。
しかし、思わぬ結果に頭がついていけず、ソレを整理するための時間も必要だった。
「…遅くまで付き合ってもらって悪かった、幻洛、伊丹殿。それと、…ありがとう。」
ツヅリは笑顔を見せるも、蛻の殻のように上の空で礼を述べた。
訪れてきた時とは打って変わり、ツヅリはふらりと部屋を後にした。

伊丹の部屋の襖が、トンと軽い音を立てながら閉められ、辺りに静寂が戻る。

「…幻洛さん。」
「ん?」
ぽつり、と伊丹が声をかける。
「よく、裂さんが先程まで居たことを黙っていましたね。…僕だったら言ってしまっていたかもしれません。」
ツヅリが訪れる少し前、この部屋には裂の姿があった。
裂もまたツヅリと同様に、頭を抱えながら同じことを思い悩んでいた。
そして同じように、幻洛は覚の能力を使い、裂の本心を知っていたのだった。

「…あいつらの今の状態を見れば、言わない方が互いの為だろう。」
今のツヅリと裂の関係は、お世辞にも良いとは言えない。
仮に、ツヅリに裂も同じことを相談しにきたと言えば、その情報を知らない裂の立場が不利になる。

「今の俺には助言する事しかできない。後はあいつら次第、だな…。」
どちらの肩も持たず、平等に事を成さねばならない。
部外者が下手に突出すれば、逆に互いの不信を招き、関係が悪化する可能性もある。

焦らず周到に、そして確実に。
その考えが幻洛にはあった。

「…やはり、そういった判断力の良さは、貴方の優れた力ですよね。」
「惚れたか?」
感服する伊丹に、幻洛はニヤリと笑う。
そのままゴロンと寝転がり、正座する伊丹の太腿に頭を乗せた。
下から見上げられる視線に、伊丹は恥ずかしそうに頬を赤く染める。
「…そんな事、言わなくてもわかるでしょう…。」
解かれた柳緑色の長髪を悪戯に指へ絡める幻洛。
伊丹は呆れたように溜息をつきながらも、その愛おしい頭を優しく撫でた。

夫婦の契りを結んだ二人は、そのまま夜更けを堪能するように緩やかな時を過ごしていった。

………

伊丹の部屋を後にしたツヅリは、先程と同じように渡り廊下の柱に背を預けていた。
しかし、先程とは全く異なる心境で、緩やかに吹く夜風を心地よく感じていた。

「しがらみ、か…。」
無数の星が煌めく夜空を仰ぎ、溜息交じりの独り言を呟く。

今まで、裂がしがらみに囚われているとばかり思っていた。
しかし、真に囚われていたのは自分自身だったなど、恥を通り過ぎて笑えてしまいそうだった。

そのしがらみから解放された今、成すべきことはただ一つ。
「裂とはきちんと向き合わなければならないな。…そして、私の本当の過去も話さなければならない。」

あと数時間もすれば夜が明ける。
これまでと同じ陽の光を、新しい視点から見ることになるだろう。

「裂は紛れもなく、私たちの大切な仲間だ。」
あの強く根付いていたしがらみは、もう、何処にもいない。

優しい夜風を感じながら、ツヅリは決心した思いで静かに自室へ戻っていった。



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